Sentiment at Onomichi  センチメント オブ オノミチ

 

今後、2000年代の本や映画や音楽など、時流という枠で括られ、古典或いは少なくとも記録という形になっていくだろうから、今しか確認できないかもしれないであろうことはしていこうと考えた。特に、本屋へは、情報選択の個性の観点から、あちこち出かけていた。

 

今、少しずつではあるが、改めて00年代(2000年〜2009年)を問うたり振り返ったり、分析したりという本も出始めている。社会学的な観点だけでなく、今面白いのは政治学そして経済学的な観点からの特異点に当たる時期である可能性がある。このことはサブカルチャーや文化芸術にも影響を与える可能性があって、今後極端な話ドラスティックに変化していくのか緩やかに変化していくのか、動向が注視されるところではある。

 

私はかつて買おうと思って手に入れなかった書物その他をいくつか購入した。かつては自分の手元に置いておくには早すぎる、或いは魔力が強すぎる、としたものがある。ところが時間が去り、人が去り、薄れていく中で改めて何が大切だったのかを教えてくれる、今の時期になってそんなことを想ったりした。状況によって、或いは人によって、敢えて掘り起こさない方が良いものもあったりする。だから私は本屋の中で、今必要なものかをあれやこれやと吟味していたのだ。

 

結局手に抱えられるくらいを購入した。そんな中で一つ、当初買うつもりのない、通り過ぎ際にたまたま目に入ったある映画を購入した。ヒントにはなるがちょっと見られればいいくらいのつもりだった。ところが私はこれに入ってしまったのだった。

 

そこにいる人たちを包むような尾道の抒情手法は、かつて私の内面が変わるきっかけになったある映画の再来に少しだけ思えた。また、出演者が今では映画に出演する見込みがないということが視聴後調べて分かり、映画の内容も相まってある種の寂寞を想った。

 

余韻は残る。心が何かにぼんやりと満たされている。そんなときこんなことを想ったのだ。

 

今自分が乗り越えなければいけない、と思っていること。これには構造の改革が必要だと思ったのだ。それこそできればあっというまに乗り越えられる。

「かつて雲がすすっと退いて乗り切ったときのことを想い出してごらん、あのときは、あのときも、今と同じように乗り越えなければいけない何かがうずまいていて、でもそれは他から見ても自分から見てもけっして少なくとも深刻そうに見えるものではない。こんなときは、何かモデルが必要なんだ。」

かつての私でも今の私でもない、その間くらいに宙に浮いた自分がささやいているようだった。さいころで’ふりだし’の目が出たように、私はこの映画で戻されたような、そんな感覚を感じた。

 

記録はセンチメントを教え、センチメントは虹の向こうを伝えた。(2013.4.2記)

 

コラムのページへ